あお くろ ぎんいろ。

ぽつっと、ひとりごと。 たまに、しゅみをつめこんでみる。

2025.7.30_映画『フライトプラン』が描く「無関心」という暴力

 

 

 

 

 

こんばんは。
こんにちは。

 

 

Netflixで新着と出ていたので、『フライトプラン(FLIGHTPLAN)』を鑑賞しました。
あらすじからして、「娘の存在自体が幻覚だった」もしくは「かなり大掛かりなトリックによって娘が実在する証拠が消され、主人公が狂人に仕立てられている」のどちらかだろうなと思いながら鑑賞していたので、途中までの遅々として進まない展開に、シークバーを連打していました(笑)

 

というのも、自分の鑑賞した流れが悪く、昨日は『ラン ラビット ラン(RUN RABBIT RUN)』を鑑賞して、ガチギレしまくる母親に終始苛立っていたので、娘の捜索で暴れ回る母親を見ているのが「こいつもか…」感があって、うんざりしてしまって。
『ランラビットラン』主演のサラ・スヌークさんは、個人的には『ジェザベル』以来、初めて拝見しましたが、相変わらずお芝居が濃厚で大好きです……狂乱する姿がこれほどまでに似合うのかとにこにこしました。

 

さて、話を戻して、ストーリーは予想通りでした。それなのに、終わってみたら感動してちょっとうるっと来てしまった。とても素敵な映画でした。
そして、この作品が描きたかったのは、母の子を想う強い想い、だけではなくて、タイトルにも書きましたが、「無関心」という凶悪な暴力なのではないかなと感じました。
確か、公開当時(2005年)、映画館で鑑賞したはずなのですが、そのときはそんなことまで気付きもしなかったな……まあ、その頃はアホ全開の中学生でしたから、思い至る可能性などなかったのでしょう……

 

「無関心」という暴力については、これまでもほかに多く描かれてきましたね。
有名なところでは、『関心領域 The Zone of Interest』もあります。
あれは、かなり恐ろしい映画だった……

 

この『フライトプラン』でも、犯人が使用した最大の凶器が「無関心」だったと言っても過言ではありません。
作中でも何度も、「誰も見ていない・関心がない」という台詞が繰り返されます。
「子どもをトランクに詰めているときですら、誰も見ていなかった」というのだから、人の無関心というのは恐ろしいです。
犯人は、この「無関心」を最大限に利用し、あとは共犯を2人立てるだけで良かった。
それだけで、5000万ドルを手に入れることが(一時的にとはいえ)可能だった。

 

攫われた6歳の娘と同年代であろう子どもたちの一人が、最後に主人公が歩み去るのを見ながら、親に「僕、あの子見たよ」と言います。
見たんかい!!見たなら言えよ!!!
とも思いますが、その場の同調圧力なのか、言わないことを選択している。
この子どもは、「見ようとしない、知ろうとしない」という無関心に加え、「見なかったふりをした」という選択をしているところが、余計にタチが悪いなと感じました。

 

このような「知ろうとしない」という消極的な努力によって、「この母親は抗不安薬を服用して、死んだ娘が生きているという幻を見たんだ」という思い込みが発生します。
たった一人の無関心ですら悲劇を招きかねないのに、この飛行機に搭乗した乗客・乗務員全員が無関心を決め込んだせいで、たった一人、「娘が生きて存在する」ということを知っている主人公が狂人扱いされなければならなくなる。
多数に対する、圧倒的少数の、圧倒的無力。

 

真相のぎりぎりまで到達していたにも関わらず、犯人を特定することだけができない主人公。
機長の偶然の一言によって全てを理解し、物語が大きく動くこととなりますが、これは本当に偶然でしかなく、そこに人間の意思は介在していません。
彼女に光明をもたらしたものは、人間の意思などではないのです。

 

最後の場面で、主人公を気まずそうに見る人、尊敬の眼差しを向ける人、主人公から目を背ける人といった人々がいましたが、その中でも、主人公が幻覚を見ている、と決めつけ、本人が望んでもいないのに勝手にセラピーを始めたセラピストがいて、この人は心底気まずそうに目を逸らしていましたね。

 

この映画が制作された当時、スマートフォンも無く、ましてやこの作品の舞台は、電子機器が一切禁止された機内。
それにも関わらず、人間は自分のことにしか興味関心が無い、周りのことなど見ていない。
これが、スマートフォンの存在する現代で考えたら……電車やバスで見掛ける人々の、スマートフォンに釘付けになった姿で火を見るよりも明らかですが、「無関心」の暴力性はより一層、凶悪さを増しているとしか思えません。

 

皆さん、その手元の電子機器の画面から目を離したことはありますか?
居眠り、あるいは寝たふりを決め込んでいる、そんな人々も数多くいますね。
家族や友人、恋人、職場の同僚や上司・部下、連れ立ったその人と話し込むのに夢中な人も。
たとえ意識的にそう考えていなくとも、無意識に「自分さえ良ければ」という振る舞いをしていませんか?
あなたのその言動が(話さない・動かないといった消極的な言動も含めて)、見知らぬ誰かを傷つけることになるかもしれない、と真剣に考えたことはありますか?
あるいは、あなたの振る舞いが、取り返しのつかない事態を招くかもしれない、と考えたことは?

 

今作の主人公のように、無力な少数に立たされた人間が、ある意味で強ければ、「取り返しのつかない」というところまでは行かないかもしれない。
だけれど、大抵の人間はそうではない。
一人ひとりの言動がそうした事態に至る契機にならないよう、周りを注意深く見つめる、という行為が必要かもしれません。
改めて自分を省みる機会をくれる、良質な作品でした。