あお くろ ぎんいろ。

ぽつっと、ひとりごと。 たまに、しゅみをつめこんでみる。

2025.6.13_『坂の途中の家』ドラマ版を今更観た感想

 
 
 
 
 
こんばんは。
こんにちは。
 
 
角田光代さん著『坂の途中の家』。
御本は拝読していたのですが、ドラマ版があったことを知らず、オススメされてきたので、一気見しました。
最終話はボロ泣きしていて画面が見えなくなり、何度も巻き戻して観ることに。
いやーーーーーー、にしても、これほどまでに、結婚したくない! 子育てなんてできるか! という気持ちにさせられ、少子化待ったなしになる作品はなかなか無い気がします。
ネガティブキャンペーンなどではなく、作品としては確実に、良作だと思います。
原作に無い要素もたくさんあって、視聴者がどこかしらの立場には感情移入してしまうように作られている、あるいは、それほどまでに身近なテーマである、と思う。
自分は、主人公の里沙子と非常に似ていたので、これは、結婚はできませんわ…と思わされました(笑)
 

 

 
母親が、生後1歳にも満たない我が子を浴槽に落として殺した事件について、裁判員裁判の対象となり、そこに選ばれた裁判員たちや、ある裁判官を巡るお話です。
 
最初の逮捕の場面では、この母親(安藤水穂)役が水野美紀さんだとは全く分からず、裁判のシーンでびっくりしました…役者さんとはすごい…
 
物語は、裁判と併せて、次の裁判員たちや裁判官の視点が並行して進みます。
 

1.山咲里沙子

主人公。里沙子は、この裁判で補充裁判員として選出されます。
出産を機に、仕事を辞めているようです。
里沙子自身も、3歳7か月の娘の親であることから、当初は、実の子どもを殺すなんて許せない、理解できない、と水穂に対し憤ります。
しかし、公判が進むにつれ、水穂を取り巻く環境が徐々に明らかになるにつれ、自身の封印していた記憶が蘇っていき、自身と水穂を重ねるようになります。
 

2.芳賀六実

雑誌の編集長。
過去に5年間、体外受精を試みましたが失敗に終わりました。
しかし、子どもを諦めきれず、夫に相談しますが、夫は「2人じゃだめなのか」と取り合ってくれません。
近所の公園にて、母親から「男を連れ込んでいる間、外に出ていろ」と言われている女の子と出会い、彼女のためにお菓子作りなどを熱心に行うようになります。
職場の部下の女性が、子持ちなのですが、非常に無神経な発言が多く、ノンデリを地で行っています。逆に感心します。
 

3.山田和貴

会社員。
裕福な家庭のお嬢様と結婚し、娘が居ますが、妻は裕福な暮らしが忘れられず、現状の生活に強いストレスを感じています。
和貴は、彼女から「夜10時までは帰って来るな」と言われており、職場でゲームをして時間を潰していたところ、会社の同僚から誘われ、肉体関係を持つようになります。
一方の妻は、実家の母から、娘に高級な服を買ってもらったり、高級レストランに連れて行ってもらったりするようになりますが、実はこれが母からなどではなく、妻がサラ金から借金をしていただけだということが、終盤で判明します。
 

4.松下朝子

裁判官。
子どもが生まれたら、夫婦で育児を分担しようという約束をした上で子どもを出産しましたが、実際は、朝子が保育園の送り迎えなども含め、ほぼ全て担うことに。
仕事と家庭を両立するため、夫にも改めて分担を求めたり、キャリアコースに乗るため、転居を伴う異動を受けようとしますが、夫の理解を得ることができず、衝突を繰り返します。
 
 
 
 
途中で、水穂の事件について証言をしているおばちゃんの話が変わったりして、違和感が…と思っていたら、事実(というか現実)が判明したときは鳥肌が立ちました。
こういう展開は、やはり映像による視覚に訴える効果は非常に高いなと感動します。
内容とは関係ありませんが、この映画は、個人的にはカメラワークが好きではないというか、意味不明というか、無駄なカット、謎の動きが多いなと思ってしまいました。端的に言えば、気が散る。
脚本と音楽がめちゃくちゃに良いだけに、ここは残念です。
 
裁判ものだと、「最初はAだと思われていたものが、実はBだった」「いや、やはりAかもしれない」といった揺れ動きはよくある展開だと思います。
ですが、この作品においては、裁判の中だけではなく、その外でも(主に里沙子について)、同じようなことが起きていくので、この衝撃はかなり強いです。
 
でも、フィクションだけではなく、現実にもよくあるよな。
片方からしたら、良かれと思って言ったこと、働きかけたことが、受け手にとっては、全く異なる意味合いになってしまうこと。
物語の中でも、和貴が言及しますが、人はそれぞれだから、耐えられること、耐えられる限界が異なる。それは至極当たり前のことで。
それを、「普通」がこうだから、「あなたは普通じゃない」からと、「普通」を押し付けるのはおかしい。
これは常々思っていることですが、「普通」は疑うべきなんだよなと、改めて思います。
誰にとっての? あるいは、どの時代、どの文化、どの地域にとっての普通なのか?
また、「普通じゃない」から、それを「普通」にしなければいけないなんて、それは同調圧力以外の何物でもない。
「普通じゃない」、でもそれでいいんだと思う。
 
判決の場面、温情判決は一切しない、冷血で知られる青沼裁判長が下した判決。
理由の部分で、つまり最後の最後で、やっと安藤水穂は救われたんだと思う。
里沙子が最後に、水穂に向かって声なき声で呟く、「さようなら」。
 
六実は、子どもが居ても、居なくても、という話題で話をしましたが、普遍的に言えることとして、想像力を持つことは大事だと思う。
自分の物差しで相手を測るだけではなくて、相手に対して想像力を持つ。
それだけで、少しだけでも、世界は優しくなる気がします。