2018.4.16_一期一会みたいなこと
こんにちは。
創作は今月中には更新することを目標にもりもり書いています。
一つ前に書いた手首の話は、本当に、この痛みのリアルさは創作に活かせるなと思っているのでたいしたことではないのですが、
例えば這いずって玄関に向かったので自宅が血まみれになったこととか、
途中失神したので頭だとかあちこちぶつけて二次的にいっぱい怪我をしたこととか、
縫ったり抜糸したりの感覚であったり、いまだにときどき手首がみちみちと捥げそうに痛いこととか、
なかなか日常を平穏に過ごしていると味わえないので、後々活かせるなと思っています。
首を絞められたり、いろんなことがこれまであったけれども、大抵のことは自動的にそう思えるようになって、つくづく端くれでも物書きでよかったなと感じます。
ある意味ポジティブ!
そうだ、そんなことよりも、今回はほんの少し思ったことを書きたくて。
ほかの媒体だと、まるで拡散を狙っているように思われるかな、とか、何よりそんな懸念を自分で感じてしまうのが厭で、誰にも見られないようにこそこそとここに書きます。
ここ最近で起きたことによる、周りの人たちの態度の多くを見ていて、ちょっと違和感があって。
当たり前だけれど、自分の好きなものが人である限り、それは不変ではないのですね
でも、往々にしてそれを忘れがちになってしまって、「ずっと」や「もっと」を盲目的に信じてしまうことがあって、
そして、病気による引退や、それ以外の理由でも脱退や解散などがあると、大きくショックを受けることがある
個人的な話になりますが、つい数か月にも、雨影がとても好きだったグループのボーカルの方が脱退されて、でもそこはその方しかボーカルがいなくて、今ではほかのボーカルの方を据えていらっしゃいます。
プロデューサー的な立場の方が変わらないし、その方の作る音楽が好きだから、今ではそちらのグループも、その元ボーカルの人も、両方とも追いかけ続けています。
こんな書き方でも分かる人には伝わるかな、ファーストライブ良かったですよね。
直筆サイン入りのポストカードを渡していただいたことをこれからも忘れません。
閑話休題。
そういうことがあったときに、なんだかときどき、誰が悪かった、ここが悪かった、ということが恨み節や怒りの声のようにたくさん聞こえてくることがあるのです。
それにとても違和感が強くて。
もちろん、それが再発防止のために帰責事由を求めていると考えれば一定程度理解はできるのですが、もう少し前向きに考えたらいいのにな、とも思わないでもない。
ばらばらになったその人たちを応援していく方法、例えば曲や絵画といった作品を購入することだったり、ライブや展示会があればそれに行くことであったり、あるいはファンクラブであったり、そういうことを探したり。
それに、例えば病気や事故で特徴が損なわれたとか、二度と作品を創作できなくなったとか、そういうことではないのであれば、これからもその良さが失われることがないので、
例えば、さっきの個人的な話で言えば、これまで惹かれていたその歌声や、曲の良さがなくなってしまうわけでないのです。
その良さの性質が変わることはあり得たとしても、それは単なる変質ではなく、うーん、何だか偉そうで厭だけれど、言うなれば、成長だと思いたい。
いろんな変化があったとしても、今まで惹かれてきた創作や、それらに対して自身が受けた感動がなかったことになるわけでも、嘘になるわけでも勿論ない
それに、どんなことがあったとしても、それらに出逢わなければよかった、なんて、少なくとも雨影は決して思えないんです
出逢えたことで、元気をもらったり、涙が出るほど感動したり、間違いなく自身の世界が変わったわけで、それは確実にとても良かったこと。
だから、出逢わないまま生きてしまわずによかった。
それらの活動と同じ時代を生きて、それらが生み出された時代背景を生きながら、触れることができたことが奇跡的で。とっても有難いことです。
それに、それらの生み出された作品がなくなるわけじゃないし、消費しきってしまうこともない。
これからも、その触れた時々によって様々な意味合いを感じることができる。
だから、どんな経緯があったとしても、それらに出逢えたことは総じて良かったと思うのでした。
そんな独り言でした。
願わくば、雨影の創作も、一人でもそんなふうに思えたら、誰かのためのほんの少しのポジティブになれたら、とってもとっても有難いことだなと思って、これからも書いていきたいのでした。